
高速道路を走っていた時、ふと目の前に現れた富士山がとても印象的でした。山の中腹には雲が横たわっているのに、 山頂ははっきりと見えていて、その上には澄み渡る青空が大きく広がっていました。 遠くにあるはずの山が、空と同化しそうでしない、不思議な遠近感を覚えたことが、この作品の出発点です。
作品の詳細
サイズ:52cm × 41cm
色数:51色
ステッチ数:806,426針
これまでも富士山を題材にしたフォト刺繍はいくつか制作してきましたが、今回は特に 「空気の層」と「光の広がり」を意識しながら、遠くにそびえる富士山と、手前の道路・車との 距離感をどのように糸で表現するかに取り組みました。
制作時に意識したこと
まず空のグラデーションでは、糸の色差によるつなぎ目が出ないように注意しました。 複数の青系の糸を細かく配置し、境目がわからないくらい自然な移ろいになるように調整しています。
富士山の山頂部分は、白から青へと変化していく微妙な色合いを出すため、糸の組み合わせにかなり気を使いました。 一方で、山肌の色は空との距離感を出すためにもう少し空の色に近づけても良かったかもしれない、と完成後に感じています。
山間部の枯れ木の色は、写真データと刺繍データで印象が変わりやすい部分だったので、一本ずつ糸を並べて慎重に選びました。 道路とコンクリート壁もほとんど同じような色味ですが、わずかな色差とステッチ方向の違いで質感を分けることを意識しています。
手前の自動車は、特に窓の色が単調になりやすいため、ガラス面に映る光をイメージしながら、微妙に色を変えた糸を使って 平坦にならないようにしました。
制作後の気づきと学び
富士山をフォト刺繍にするたびに悩むのが「山の色」です。今回改めて感じたのは、 遠くの山が空と同化して見えるような印象でした。作品制作のあとで調べたところ、 これは「レイリー拡散」と呼ばれる現象によるものだと知りました。空気中の微粒子に光が当たることで、 波長の短い青い光が強く散乱し、空が青く見えるそうです。
本来、富士山のように遠方にある物体は空と同じような色合いに近づいていきます。 しかし富士山はあまりに大きいため、完全に青く溶け込むことはなく、山としての存在感を保っている。 その中間のような色を、糸でどう表現するかが今回の大きなテーマになりました。
私は「光を糸で表現する」ことを制作テーマにしていますが、感覚だけでなく、 光の振る舞いを科学的に知ることで、糸色の選択が変わってくると感じています。 レイリー拡散のような現象を理解することで、今後は自分のイメージだけに頼らず、 より写実性の高いフォト刺繍に近づけるかもしれません。
生地の変更と今後の課題
今回は実験的に、これまで主に使ってきたフェルトから「アーバンツイル」という生地に変更しました。 光沢感や糸の発色は良かったのですが、生地自体が柔らかく、従来の刺繍方法では刺繍ずれが発生しました。 額装して仕上げるという前提で考えると、現時点ではフェルトに比べて扱いづらい印象です。
とはいえ、新しい生地を試すことで見えてくる課題も多く、素材研究という意味では 今後の作品づくりに活かせる経験になりました。糸だけでなく、生地の特性も含めて 「光を糸で表現する」方法を探っていきたいと思います。
高速道路から一瞬だけ見えた富士山の風景が、こうして一枚のフォト刺繍になりました。 まだまだ試したいことがたくさんありますが、その一つひとつが次の作品へのヒントになっていきます。
